RCG JAPAN LTD.
レミアス・キャピタル・グループ
アンソニー M. ミラー氏
Anthony M. Miller
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大手投資銀行の職を捨て、ゴミのリサイクル事業を起こしその後失業を経て日本に戻るまで。
ビジネスは日本流に行うべきだと皆が言っていた。
当時のアメリカ経済は良くも悪くもない状況で、日本の計画経済の方が賢いやり方だとされ、長期的資金運用に重点を置いていたため金利も低く、産業に立脚した経済構造を目指し、労使関係も良好で、日本はこの83年当時は世界一の経済大国だった。
当時のアメリカ経済は良くも悪くもない状況で、日本の計画経済の方が賢いやり方だとされ、長期的資金運用に重点を置いていたため金利も低く、産業に立脚した経済構造を目指し、労使関係も良好で、日本はこの83年当時は世界一の経済大国だった。
第1話「月給400ドルで団地に住み孤独と戦う初来日」
- 月給400ドルで団地に住み孤独と戦う初来日
- 80年代ハーバード大学院でも日本は注目されるが…
ウォール街にありがちな大手一流企業への就職を目指し、中堅の老舗投資会社ディロン・リードに入社するも、今ひとつ肌に合わず当時少し格下のベア・スターンズ社に転職。はちゃめちゃで企業家精神にあふれた新会社では水を得た魚のように楽しく働きアジアを任される…
第2話「一流企業に入ることだけがすべて?」
- 一流企業に入ることだけがすべて?
ベア・スターンズでジュニアパートナーの職につき、パークアヴェニューに面した個室を与えられるも、所得を80%も落としオハイオ州のクリーブランドでゴミのリサイクルの事業を始める。
第3話「ウォール街からゴミのリサイクル事業に転身」
- ウォール街からゴミのリサイクル事業へ転身
- ベア・スターンズ社に復帰し鉄鋼スラグの山から香港へ
アジア事業縮小で半数の減員となるが、ミラー氏は首にならずNY転勤の話が来る。ところが香港にとどまる決意をしたミラー氏はその話を蹴り2年ほど失業する…。
第4話「NYへの転勤を断り失業へ」
- ベア・スターンズに復帰するもアジア事業縮小の中で失業から一転、起業と引き抜きに
アンソニー M. ミラー [Anthony M. Miller] 氏プロフィール
1979年 学生時代インターンとして千代田生命に勤務。団地生活と片道1時間半の通勤を経験する。その後老舗の投資銀行ディロン・リード社(現UBS)、ベア・スターン社で勤務後、1983年ハーバード大学ビジネススクール入学。
その後パークアベニューに面した個室を与えられるも、独立しクリーブランドで製造会社の経営に参加。ゴミのリサイクル事業を行う。後にベアー・スターンに一旦戻るもアジア事業の縮小で、ニューヨークへの転勤の話をもらうがそれを受けず、香港に無職のまま留まることを決意。
1, 2年の失業期間を経た後カーライルと出会いアジアのプライベート・エクイティ・チームを結成。その後レミアス・キャピタル・グループの日本代表として現在に至る。
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