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2007年09月11日
 ■  アンソニー・ミラー氏ポッドキャスト番組一覧&プロフィール
RCG JAPAN LTD.
レミアス・キャピタル・グループ
アンソニー M. ミラー氏
Mr. Anthony M. Miller
Miller氏写真
大手投資銀行の職を捨て、ゴミのリサイクル事業を起こしその後失業を経て日本に戻るまで
■第49話 月給400ドルで団地に住み孤独と戦う初来日
■第50話 一流企業に入ることだけがすべて?
■第51話 ウォール街からゴミのリサイクル事業に転身
■第52話 NYへの転勤を断り失業へ

→アンソニー M. ミラー氏ビデオキャストはこちらから
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アンソニー M. ミラー氏プロフィール
1979年 学生時代インターンとして千代田生命に勤務。団地生活と片道1時間半の通勤を経験する。その後老舗の投資銀行ディロン・リード社(現UBS)、ベア・スターン社で勤務後、1983年ハーバード大学ビジネススクール入学。その後パークアベニューに面した個室を与えられるも、独立しクリーブランドで製造会社の経営に参加。ゴミのリサイクル事業を行う。後にベアー・スターンに一旦戻るもアジア事業の縮小で、ニューヨークへの転勤の話をもらうがそれを受けず、香港に無職のまま留まることを決意。1、2年の失業期間を経た後カーライルと出会いアジアのプライベート・エクイティ・チームを結成。その後レミアス・キャピタル・グループの日本代表として現在に至る。

 ■  第49回Fコミュポッドキャスト

今回より4回にわたってRCG JAPAN LTD. レミアス・キャピタル・グループ のアンソニー M. ミラー氏にお話をうかがいます。
学生時代にインターンとして日本の企業に数ヶ月勤め、団地に住み、通勤地獄を経験し、その後卒業してからは数社の投資銀行で経験を積み、2001年より日本に舞い戻ってRCG JAPAN LTD. の代表を務めるという様々な転職&独立経験をお持ちのミラー氏。
失業期間も経験しているため単なるラッキーな成功物語でないところが、Fコミュリスナーの共感を呼ぶと思います。
第一回目は
■月給400ドルで団地に住み孤独と戦う初来日
■80年代ハーバード大学院でも日本は注目されるが・・・
をお送りします。

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内容
■月給400ドルで団地に住み孤独と戦う初来日
高校大学時代から私は日本に強い関心を持っていた。
日本のものに興味があり面白いと思っていたが、それらの実体験はなかった。
子供の頃の親との旅行はヨーロッパや米国内ばかりで、大学時代に経済と経営学部の
学生団体に所属していたが、そこでは世界中からの学生をプロビデンス(コネチカット州都)に受け入れる代わりに所属学生を好きなところに派遣してくれた。
私は格好の良さからファイナンスの仕事を選び、そして同様の理由で日本を派遣先に選んだ。
勤務先は聞いたことがなかったが千代田生命という会社に決まった。
当時は日本で五・六位の中堅の保険会社だったと思う。
その後倒産したが当時はまだ堅調な会社だった。
単身来日した時はそこが保険会社で、月給を400ドル支給してくれるぐらいの認識しかなかった。
その他に支給されたのは住む家と必要経費。
日本は物価が高いと言われていたので当初は大変心配していた。
東京の一坪はロス全体に匹敵すると言う人もいたぐらいだ。
着いたホテルの宿泊と朝食代は一カ月分の給料に相当するものだった。
お金の面でこの先どうなるのか不安だった。
結局は会社側が他の従業員にするように全部面倒をみてくれた。
それからは団地に住む典型的な勤め人となり、通勤は電車で一時間半。
もううんざりだったのだが、日本人の方がもっとうんざりしていたようだ。
私が嫌になったのはいつも孤独で、20マイル四方に外人は私だけだったということもあり、当時の日本女性は西洋人が好きでなく、というか、どう扱って良いか分からない感じで、だから、私にとって日本滞在中の3,4ヶ月は孤独で憂鬱な日々であった。
でも、私が嫌になったもうひとつの理由は、特に若いサラリーマンの悲惨な状況だった。
驚くほどの長時間勤務をし、仕事が嫌いでサボることばかりを考え、上司を嫌い、会社からは疎外されていた。
いわゆる愛社精神はあるが、それは会社の野球チームを応援する程度のことで、仕事や会社に心底愛着を持っているということではなく、哀れな存在であった。
私が一緒に住んでいた独身の20代の日本人の男性達は、70年代後半頃だったが結構不幸な状況にあった。
彼らは仕事に忙殺されながらも、その仕事を本当に好きになれずに、定年までの30年40年を過ごす自分を見ていたのだ。
彼らにとって楽しくも面白くもあるはずがない。
■80年代ハーバード大学院でも日本は注目されるが・・・
5年から10年後の83年にハーバードの大学院に在籍していた頃、日本が話題となりいつも「日本」が模範であった。
ビジネスは日本流に行うべきだと皆が言っていた。
当時のアメリカ経済は良くも悪くもない状況で、日本の計画経済の方が賢いやり方だとされ、長期的資金運用に重点を置いていたため金利も低く、産業に立脚した経済構造を目指し、労使関係も良好で、日本はこの83年当時は世界一の経済大国だった。
当時「いやいや日本経済は本当は大したことない、何れ軌道を外れて大変なことになる」と言える程賢くはなかったのだが、変わりに「日本をモデルに経済を組み立てるのはやめた方が良い。なぜなら日本の人たちは幸せを感じていないから。平均的日本人ビジネスマン・専門職ホワイトカラーは惨めな思いをしている。実際のところ肉体労働者の方が幸せかもしれない。働き手が仕事嫌いである社会を意図的につくる人はいないと思うが、日本はそんな社会だった。経済にとってはプラスでもそのような
やり方は真似すべきでない、アメリカでは機能しないし人々も許容しない。どちらにしてもやめた方が良い。」と私は主張した
そして日本のやり方自体も83年当時に考えられていた程うまく機能しなかった。

2007年09月12日
 ■  第50回Fコミュポッドキャスト

今回もRCG JAPAN LTD. レミアス・キャピタル・グループ のアンソニー M. ミラー氏にお話をうかがいます。
学生時代日本で悲惨な?サラリーマン生活を経験したミラー氏はウォール街にありがちな大手一流企業への就職を目指し、中堅の老舗投資会社ディロン・リードに入社するも、今ひとつ肌に合わず当時少し格下のベア・スターンズ社に転職。はちゃめちゃで企業家精神にあふれた新会社では水を得た魚のように楽しく働きアジアを任される・・・
この回では
■一流企業に入ることだけがすべて?
をお届けします。


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内容
■一流企業に入ることだけがすべて?
79年や83年の日本の状況がもう少し違っていたら、アジアからキャリアを積んでいたと思う。
最初の訪日があまりにも落胆すべきものだったので、私はウォール街の人間にありがちな大手企業を目指した。
実際には中堅のディロン・リード社に就職した。
ディロン・リード社は非常に名前の通った会社で、歴史も古く、老舗の投資会社だった。
経営者のダグラス・ディロンは財務長官も歴任した。
自分にとっては良い判断ではなかったかもしれない。
一流企業に行くよりはもっと企業家精神に富んだハチャメチャな会社の方が自分には向いていたと思う。
社員は社会的に権威を持っている階層で金持ちばかり、パートナーに至っては自分で稼いだかどうかは別にして更に金があり、世界中に太いパイプを持っている。
彼らは仕事に恵まれていた上に、慎重で賢い人たちだった。
だが少々つまらない感はあった。
必ずしも一流企業に行けば良いということではない。
日本の若者が一流の銀行などに行きたがるのは知っているが、どのような会社に行けば幸せになれるのかを考えるべきだ。
実際私の場合、ディロン・リード社は向いていなかった。
と平然と言えるのもこの会社がもうないからだ。
ディロン・リード社はSGウォーバーグ社に買収され、それを次にスイス銀行が買い、さらにUBSが買った。
そして今はものすごく大きな組織になった。
もしもう一度やり直せたとしても、自分の性格と合わない歴史ばかり長い一流企業にはいかないだろう。
幸いなことにアメリカでは転職が容易なので、2,3年後にはベア・スターンズ社にうつった。
ベア・スターンズ社はディロン・リード社より規模は大きかったが、一流企業としての評価はやや下だった。
しかし、ノリノリの投資銀行でパートナーはより若く、学歴的には前の会社より劣っていたものの、服装も高級品にこだわることなく、持っているお金も相続したものでなく、自らつくった人たちが多かった。
本当に楽しい会社で私自身は幸せだった。
ディロン・リード社もそれなりに良かったが、幸せとまでいえなかった。
だからこその転職だが、アメリカでは簡単なことだ。
日本でも難しくはなくなってきているし、転職ができる環境の方が健康的だと思う。
なぜならそのほうが良い人生を送れるし、自分の可能性も追求できるからだ。
ディロン・リード社に残っていても楽しくなかったろうし、ひょっとしたらアル中になっていたかもしれない。
文句ばかり言ってできるだけ早く引退していたと思う。
でもそうならなかったので、今も幸せで90歳まで働きたいと考えている。
ベア・スターンズ社はディロン・リード社よりドメスティックであったが、国際部門が限られている中で私は香港に派遣された。
日本を離れてから何度もヨーロッパには行ったが、アジアはご無沙汰していたため、香港に行くことは願ってもないことで大変楽しみにしていた。
プロジェクトは半年がかりで4、5回ほど行ったり来たりしていて、一箇所に数週間滞在しまさにアジアに住んでいる感覚だった。
我々は航空機のケータリングを売る仕事を担当し、アジア中を飛び回っていた。
サイパン、バンコク、上海、グアムや日本などに行き、とても楽しかった記憶がある。
香港は本当に東京と違っていて、人々は生き生きしていて活気があり、皆さんは起業家精神も旺盛…というか旺盛すぎて、どんな時でも40分くらいしかじっと人の話を聞かないという感じだった。
それでも仕事は大変上手くいき、ビジネスは最終的にルフトハンザ社に売却できた。
彼らは巨額の賠償金額を提示した。
このとき応札してきた企業には起業したばかりの非公開投資会社のカーライス社があった。
彼らはまだ無名だったが、ほんの少し金額が足りなくてルフトハンザ社に負けた。
私のお客さんは大いに喜び、私もアジアで素晴らしい時間を過ごした。

2007年09月14日
 ■  第51回Fコミュポッドキャスト

今回もRCG JAPAN LTD. レミアス・キャピタル・グループ のアンソニー M. ミラー氏にお話をうかがいます。
ベア・スターンズでジュニアパートナーの職につき、パークアヴェニューに面した個室を与えられるも、所得を80%も落としオハイオ州のクリーブランドでゴミのリサイクルの事業を始めるミラー氏。
この回では
■ウォール街からゴミのリサイクル事業へ転身
■ベア・スターンズ社に復帰し鉄鋼スラグの山から香港へ
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内容

■ウォール街からゴミのリサイクル事業へ転身
その後もしばらくは投資銀行の仕事に身を置いたが、数年後には米国クリーブランドにある製造会社の経営に参加することになった。
クリーブランドを好きな人もいるだろうが、私はそうでもなかった。
私の知人は皆同じことを言うであろう。
寂しい古ぼけた町で、失業率もかなり高い。
かつては鉄工所が3つあったが、1つになっており、その1つも当時は倒産していた。
大多数の労働者は失業中か、職を失うことを恐れていた。
我々はゴミのリサイクル事業を行っていた。
中小企業で4500万ドルぐらいの会社だった。
友人と一緒に大きなシェアを購入し、CEOから経営を手伝ってほしいと言われた。
ウォール街の仲間は気がふれたと思っただろう。
ジュニアパートナーとしてパークアベニューに面した個室も与えられていたのに、クリーブランドの産業センターにある、鉄鋼スラグの山と向き合うだだっ広い事務所に
移ったのだから。
その年の所得はウォール街のときの20%ぐらいに減り、皆からは頭がおかしくなったと思われていた。
でも、一度は会社を経営してみたかったし、非公開会社への投資も行ってみたかった。
投資銀行というのは代理人としての手数料収入しかない。
しかしプライベートエクィティやヘッジファンドでは自分が投資の主体であり、他人の金であっても意思決定を行うのは他ならぬ自分である。
投資銀行からプライベートエクィティへの移行は難しかった。
魅力的な分野ではあったが、案件が比較的少なく参入が困難だったからである。
当時はまだ規模が小さかったのである。
そこで、実際の会社に投資してみることを考えたのだ。
製造業で一大帝国を作る夢もあった、小説「アトラス・シュラグド」に出てくるジョン・ゴールトのようになろうとも考えた。
しかし、そうはならなかった。
会社としては面白く利益を生んでいたのだが、問題を抱えていたためにそれ以上の成長は見込まれなかった。

■ベア・スターン社に復帰するも
アジア事業縮小の中で、クリーブランドで2年半が過ぎた頃、以前勤めていたベア・スターンズ社の社長と国際的な投資銀行のトップより、香港オフィスに戻り働かないかとの誘いを受ける。
香港ではかつて一つしか取引を締結していなかったのだが、ベア・スターンズ社は特に国際部門に力を入れていたわけでもなかったので、皆より多くの取引経験を積んでいた。
2年半クリーブランドにいた間に香港オフィスは7名から90名まで増員したが、オフィスのほとんどのものは経験に乏しかったので、ここアジアでの投資銀行業務で私にお呼びがかかったのだ。
仕事は素晴らしく給料はその時の仕事の10倍で、リサイクルの仕事がこの先上手く
いかないことがわかっていたので、この仕事をうけることを快諾した。
誰もがなかなか幸せになれないオハイオのクリーブランドを去り、刺激的で活気があり素晴らしい所と以前の滞在から記憶していた香港へ移り、ベア・スターンズ社で勤務することになった。
私が「ここ」という時にアジアを意味するのは、日本とアジアがアメリカにとって他と異なる市場であるからだ。

 ■  第52回Fコミュポッドキャスト

今回もRCG JAPAN LTD. レミアス・キャピタル・グループ のアンソニー M. ミラー氏にお話をうかがいます。
アジア事業縮小で半数の減員となるが、ミラー氏は首にならずNY転勤の話が来る。ところが香港にとどまる決意をしたミラー氏はその話を蹴り2年ほど失業する・・・。
この回では
■ベア・スターンズに復帰するもアジア事業縮小の中で
■失業から一転 起業と引き抜き
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■ベア社に復帰するもアジア事業縮小の中で
香港は素晴らしく刺激的で大変気に入っていたのだが、アメリカの投資会社にとって中国の急速な成長は利益を生まなかった。
中国ビジネスのために3倍、4倍、6倍と香港オフィスの規模を拡張してきた会社が、軒並み5年10年経たないうちに中国市場が儲からず取引も少なくなるという。
深刻な発見をし中国オフィスの縮小に走ったアメリカではよくあることで、必ずしも良いことだとは言えないが、我々(投資銀行)は常に頂点を追い求めているので、ピークに向けて増員し、ピークが去ったら減員する。
クリーブランド時代の2年を入れずとも、断続的にほぼ10年ベア社で勤務し、家族同然だったため、皆のように香港で解雇されるのではなくNYへの転勤の話がきた。
約120人を半数に減員したのだ。
検討した結果申し出を断ったのは、香港に戻ってきたかったし好きだったから。
その後無職となり1,2年高級マンションの家賃を払い続けながら香港にとどまる。
■失業から一転起業と引き抜き
かつて香港での顧客であった友人と一緒に会社を起こすことになり、プライベート・エクイティ投資会社へのアドバイスを理念とした。
いつかプライベート・エクイティ投資会社を立ち上げたかったのだが、一億ドルの持ち合わせがなかったためかなわず、当時は生活するのに十分なほど稼ぐことができなかったが、面白かったしそれが何かにつながればばと願っていた。
結果として大規模なプライベート・エクイティ投資会社であるカーライルにたどり着き、採用され、アジアにおけるプライベート・エクイティ・チームを形成した。
いたるところを飛び回り稼ぎまくった素晴らしく楽しい時期であった。
2~3年後意見の相違があり友人と一緒に辞職するのが良いという結論に至った。
カーライルが数ヵ月後に同じ結論に至ったかどうかはわからないが、再び一人になり次に何をしようかと模索した。
その時注目したのがこの10年で少なくとも2度香港に住み、どういうわけか上手くいかなかったので仕事を辞め、次の仕事が何かわからないというリスクを背負った。
ディロン・リードからベア・スターンズへの転職は、採用され給料が増えたので簡単でスムーズな転職であった。
時に転換は困難でどうなるのかと心配になるが、無事上手くいきレミアスでビジネスをはじめる事になる。
レミアスは現在の会社で香港と東京で働いている。
素晴らしい経験をしているので、おそらくずっとこの会社にいるだろう。
家族同然であるしビジネスも上手くいっていて皆幸せだ。
過去10年で1度ならずとも深刻な押し目が私のキャリアにはあり、そんな時は自分の体をはたきまた出直すしかない。
私を不運だと思う人には、自分はその人と同じくらい不運だとあえて言うし、私をラッキーだと言う人には、自分もその人と同じだけラッキーだと思う。
一生懸命働き賢明であるようにつとめ、周囲の状況を理解しチャンスを生かす。
ラッキーならそれを最大限生かし、アンラッキーなら極力ダメージを受けないようにする。